「じゃあ……前田さん、ベッドにうつ伏せになってください」
「よろしくお願いします。矢田さん」
そう短く頼子に答えて、前田はベッドに倒れこむように横になった。
前田慶次(まえだけいじ)、プロ入り3年目のパワフルズの投手である。
高卒のドラフト4位でパワフルズに指名されて2年目から1軍に上がり、先発ローテーションの一角を任されている。
頼子と慶次がいる所は慶司のマンションだった。
時間は夜中の12時を回ったところで普通ならば男と女が同じ部屋に一緒にいる時間帯ではないだろう。だがそれは、二人にとって日常になっていた。
矢田頼子(やだよりこ)、スポーツトレーナーである。もともと神戸在住なのだが慶次と専属トレーナーの契約を結んだ為、関東に出てきている。
もともと慶次のマッサージケアの担当は頼子ではなかった。頼子の先輩トレーナーの安間(やすま)が慶次の担当で頼子は違う選手を受け持っていたのだが。
ある時、急に「前田慶次の専属トレーナーになってもらえないか?」と受け持っていた選手に言われたのである。酷く残念そうに。
そこにどんな経緯があったのかはわからない。正直担当した選手には気に入られていたと思うし、それなりに自分のマッサージの腕には自信を持っていた。思い当たる節はもなかった。ただ「本当にタイトルを取るとはなぁ……」と呟いていていたのが気にはなったのだが。
その日から慶次の専属トレーナーとしての日々を送っている。
今日、慶次は巨人戦に先発した。チームは3対1で勝利し、慶次は6安打1失点で8回を投げ切って勝ち投手となった。
試合が終わり、ミーティングをして解散したら大体マンションに戻るのはこの時間になる。これから頼子の仕事が始まるのである。
ベッドにうつ伏せに横たわる慶次の背に跨り、首、背筋、肩、腕、腰、足と順繰りにほぐし、マッサージをしていく。ゆっくりと時間を掛け、丁寧に。
1時間以上かけたマッサージが終わる頃には、いつも慶次は眠りについている。頼子は寝ている慶次を起こすことなく、毛布をかけて部屋を出て行くのがいつものパターンだった。
その日は違った。
『前田さん疲労が溜まってる……』
肩や背筋、脹脛や太腿の筋肉のハリが普段の試合後の状態と違っていた。一時間程度の簡単なマッサージではとりきれないほどのハリが筋肉に残っている感触があった。
『無理……してるのかしら』
頼子が慶次とトレーナーとして付き合って最初に感じたのは『物静か』という面だった。安間と一緒に練習風景を――慶次の姿を一度見せてもらった時もそうだった。
その人は淡々とピッチング練習をしていた。
何かを内に秘めてボールを投げ込んでいた。黙々と前だけを見据えて。
その人に見張るほどの速球があるわけではなかった。人を威圧する迫力があったわけでもない。女性を魅了する甘いマスクというわけでもない。
けれど不思議とその姿に強く惹きつけられた。
名前も知らない人の姿に。
慶次の専属になってからも変わらなかった。
先発の後のマッサージを静かに受ける。
勝った時も負けた時も変わらずに。
慶次の前に専属だった選手は饒舌だった。ヒットを打った時、三振した時、ホームランを打った時、買った時、負けた時。マッサージ中にその時々のテンションで試合の時の自分のプレイを話しかけてきた。
活躍した時は楽しそうに嬉しげに。
活躍できなかった時は辛そうに悔しげに。
慶次は違った。
勝った時も変わらず、負けた時も変わらなかった。
けどそれが『内に秘めているだけ』と気づいたのは専属になって一ヶ月ほど経った時だった。
5月の阪神戦は甲子園での先発だった。
首位の阪神と2ゲーム差をつけられている2位のパワフルズ。セリーグは首位から5位まで3・5ゲームという均衡した状況のマウンドだった。
初めてのプロとしての甲子園のマウンドは、慶次の中の何かを狂わしたのかもしれない。
溢れかえる阪神サポーターの熱狂的な声援と雰囲気……慶次の立っているマウンド上は【敵地】という言葉が一番合っていた。
トレーナー控え室の小さなテレビでそれを観ていた頼子ですら、地鳴りのような歓声を感じ取っていた。
慶次はその球場を一体とした雰囲気に呑み込まれた。
ストライクが入らない。
狙った場所にボールが入らない。
迷いが焦りを呼ぶ。
置きにいったようなボールを阪神打線に面白いようにスタンドに運ばれた。
足掻けば足掻くほど傷は広がっていった。
二十歳になったばかりの慶司にとって、その空気を振り切るには若すぎた。
地面が揺らぐようだった。
そして自分が今、どこにいるのかもわからないほどに目の前が暗かった。
結局慶次は3回を6失点でマウンドを降りた。
その時も慶次は胸を張っていた。下を向かずに前を見ていた。
けれど右手を白くなるほどに握り締めていた。
慶次がベンチに入るのを確認してから頼子は選手控え室に向かった。慶司の肩の簡単なケアとアイシングを間を置かずにやる為である。
しかし、いつまで待っても慶次は来なかった。普段ならばすぐに控え室に戻ってくるはずなのに。
待つこと更に20分。控え室で聞く甲子園の歓声はさらに大きく、激しいものになる。
ちょうど、攻守交代の合間に控え室に戻ってきた顔見知りのコーチに頼子は慶次のことを尋ねた。
「ああ、今日はあいつは最後まで見届けるって言ってベンチに座ってるぞ。戻ってこないんじゃないか?」
との答えに成る程と、頼子はそのままトレーナー控え室のほうに戻った。戻って試合中継を観てみると9対1と更に点差が開いていた。慶次がマウンドを降りた後に更に打たれてランナーを返されたのだろう。結局慶司の失点は9ということになる。
場内は割れんばかりの歓声。周囲から聞こえる音とテレビから聞こえる音。それが合わさり控え室内はまるでライブハウスのような音が響いていた。
テレビではベンチに座っている慶次を映している。実況と解説の人間が「若さ」「経験」「ムード」という言葉で何かを言っていたが、頼子にとってはそれよりも映っている慶次の姿のほうが気になっていた。
『本当に悔しそう……』
初めてのことだろう。慶次が序盤からマウンドを降りた事も投げ終わってから控え室に戻って来ない事も。
歯を食いしばって何かに耐えているのが頼子にはわかった。おそらく拳も握り締めているのだろう。テレビでもその姿を映されている。『この悔しさをばねに・・・』と解説の声が聞こえる。
結局10対3でパワフルズは敗れた。
黄色と黒の模様で染まるスタンドに地鳴りのように響き渡る六甲おろし。そんな場内を静かに見つめ、一番最後に控え室に戻ってきたのも慶次だった。しかし、頼子の前にいたのはテレビでは悔しさに震えていた慶次ではなかった。いつもと変わらない、いや、何かを決意しているかのような静かな目をした慶次の姿だった。
「すっぽかしてすいませんでした」と頭を下げる慶次に何故か慌てながら気にしないでくださいと逆に恐縮する頼子。マウンド……いや、グラウンドでの慶次と普段の慶次とのギャップに戸惑ったということだろうか。
先にホテルで準備して待っていますからと、動揺しながらの頼子とは対照的に慶次はお願いしますと、いつもと変わらない答え方だった。
それから3週間後、再度甲子園での慶次の登板機会がやってきた。首位の阪神とは0,5ゲーム差であり、首位攻防戦、3連戦の初戦である。
いつものとおりにアップ前の慶次のストレッチの補助をする頼子には慶次がどこか嬉しそうに見えた。見た目には変わらない。頼子自身なぜ自分がそう思ったのか分からなかったぐらいの些細な変化。
「何か嬉しそうですね」
理由が知りたくなった。頼子から話題を振るのは初めてのことだろう。安間からも試合前の選手はナーバスになるものだから集中する邪魔をしてはいけないと言われていて、何より、自分自身いいトレーナーであろうと心がけていたからである。
「え……わかりますか?」
少し驚いた様子の慶次。話しかけられたことに驚いているのか、自分の様子に気がついたことを驚いているのか。
「何となく……ですけど」
「いや、前回の登板のリベンジが出来ると思うと嬉しくて嬉しくて……負けず嫌いなんですよ俺は」
その言葉で頼子の脳裏にはあの時の慶次の姿が思い浮かんだ。
拳を握り締めながらマウンドを降りる慶次。
9と書かれた電光掲示板をベンチから見つめる慶次。
試合後には普段と変わらない様子でマッサージを受ける慶次。
きっと今も悔しさは晴れていないのだろうと、頼子は目の前に寝そべりストレッチを行う慶次のことを思った。負けず嫌いと自分で言うくらいだ、同じ場所で負けたままではいられない、我慢がならないのだろう。
『私が気が付くぐらいだからよっぽど嬉しいのね』
と、心中で呟く頼子。しかし、嬉しそうと気が付いたのは頼子だけであった。周囲の人間は慶次のそんな様子には気が付かず、普段と変わらぬ姿に『心中では静かな闘志を燃やしている』と結論付け、今日の試合のピッチングに期待していた。
「………頑張ってください」
初めて試合前の慶次に、選手に対しての言葉。
無責任。けれど、心からの言葉。
安間から言われていたトレーナーとしての決まりを破ってしまった。
選手に対して野球の事、試合の事については選手から言われることはあってもトレーナー側からは話さない。トレーナーはトレーナーに徹する。それがプロのトレーナーというものである。と、言ったのが安間であった。
「………はい、頑張ります」
そんな頼子の心中を知ってか知らずか、普段通りの穏やかさで慶司は答えた。
その日の慶次は9回を投げきり、2対0の初完封という勝利をもぎ取った。9回の裏に最後のバッターを打ち取った時の初めての拳を突き上げたガッツポーズと叫び声が、トレーナー控え室の頼子の耳に届いた。
次の日、「慶次吠える!!」「男の執念」「リベンジ完了!!」「パワフルズ首位奪還」という見出しがデカデカと載っているスポーツ新聞と慶次からプレゼントされたその時のウイニングボールを見比べながら頼子は、
『何かかっこいいかも……』
と、一人頬を赤らめつつ
『いやいや! 私はトレーナーなんだから……』
と顔をぶんぶんと横に振る頼子の姿があった。
頼子のマッサージを受けて、ベッドに気持ちよさそうに眠る慶次の顔はまだ幾分幼さを残している。頼子よりも3つ年下の慶次は頼子に対して敬語を使い、どこか遠慮しているようにも見える。
『もっと甘えてくれてもいいのに………』
それは年上としてのものか、トレーナーとしてのものか、一人の女としてのものなのか頼子自身にもわからない想いだった。
頼子と慶次のトレーナー契約は試合前と試合後、その次の日の3日間である。他には慶次から連絡があったときに駆けつけてマッサージを行うということになっている。
しかし、慶次が頼子に連絡をした事はほとんどなかった。気に入られてないのかもしれないと不安になりながらもプレゼントされたウイニングボールを見てそれを払拭し、「私はトレーナーなんだから」と更に思い直す。それを何度繰り返しただろうか。
「もっと一緒にいられたら私が癒してあげれるのに………」
小さく想いを口にして、初めて気が付いた。
疲れていても無理する姿は見たくない。
けれど疲れた体をマッサージしてあげたい。
もっと気持ちよさそうに眠る寝顔を見ていたい。
もっとこの人の体に触れていたい。
もっと、癒してあげたい。
自分の気持ちに気が付くと、急に今の状況が嬉しいような恥ずかしいようなものになってきた。
夜中、男の部屋で二人きり、男は穏やかな顔で寝ている。区切って考えて頬が熱くなるのがわかる、が、慌てて部屋を出ようとはしなかった。
ゆっくりと一度だけ、しゃがんで慶次の髪から頬にかけて撫でた。
「おやすみなさい………前田さん」
そう耳元で呟いて毛布を掛け直す。
部屋を出る時に一度だけ振り向いて、
「明日、また来ますね」
返事がないのをわかりながら起こさないように声をかけた。
そのシーズンは慶次は怪我することなく1年間先発ローテーションを守りきり、チームは優勝、慶司は最多勝のタイトルを手にした。
そしてオフには………
「これからよろしくお願いします、頼子さん」
「はい、慶次さん。これからは毎日スペシャルマッサージをやりますから!」
パワプロ11マイライフ。